プロフィール

河村武明。1967年徳島県阿南市生まれ。

それは、職を転々としながらも、ミュージシャンとしての階段を登り始めていた矢先の発病でした。2001年10月、34歳の時に突然脳梗塞で倒れ、48時間後に救出され命はとりとめたものの、発音が困難になる構音障害、聴覚障害に失語症、さらに利き手の右手が麻痺、重い後遺症が残りました。音楽を聴くこと、ギターを弾くこと、歌を歌うこと・・・自分にとって一番大切だったものが奪われてしまった。「もう死んだ方がましだ」という絶望に繰り返し襲われ、命を救ってくれた友人にさえも、「どうしてあのまま死なせてくれなかったんだ!」と心の中で叫ばずにはいられなかった。

ところが数ヶ月後、以前観た北野武監督の「HANA-BI」の中で、半身不随になった警察官が絵を描いていたシーンを思い出し、「そうだ、絵を描いてみよう」とスケッチブックに筆を走らせてみると・・・信じられないことに、利き手ではない左手でスラスラと絵を描くことができるではありませんか。その時の感動は今も忘れることができません。なにもできなかった自分に、「絵が描ける!!」嬉しくて嬉しくて、毎日毎日描きました。

そして発症から半年後、退院を待たずに路上販売をスタートしました。その活動がたちまち話題となり、メディアに多数取り上げられ、路上デビューから約1年後、髙島屋からのスカウトをきっかけに、全国で定期的に個展を開催するようになりました。2003年にはフジテレビ系「奇跡体験!アンビリバボー」に出演。講演活動にも力を入れ、講師がしゃべらないスタイルの講演は、600回を超えました。現在も小中学校は講演料無料を継続中です。

2017年

京都府 百万遍知恩寺瑞林院に宇宙と親子龍を描いた10枚の襖絵を奉納
百万遍知恩寺瑞林院 ふすま絵 制作&一般公開特別拝観 ムービー (youtube.com)

2018年

佐賀県 ロコメディカル江口病院に、たけミュージアムが誕生
エレベーターアート制作動画
【江口病院】たけさんホスピタルアート制作風景 タイムラプス動画 (youtube.com)

たけの日本一無口な講演会が500回を達成。

2019年

第10回全国・講師オーディションで準グランプリを獲得
第10回_第2位_河村武明_全国・講師オーディション (youtube.com)

2020年

徳島県 阿南ふるさと大使を受嘱
https://www.facebook.com/city.anan/posts/2579012979013568/

致知6月号に掲載
感謝の力が不可能を可能にする。画家・詩人の河村武明が掴んだ人生の法則|人間力・仕事力を高めるWEB chichi|致知出版社

ニューヨーク チェルシー Made in Japanに初出展
ニューヨークビズに掲載
詩画家、講演者 河村武明さん、「見方」が変われば、「味方」になる – ニューヨークビズ! (nybiz.nyc)

2021年~22年

京都産業大学ポスターデザインを担当
「苦しい時こそ、ありがとう!」京都産業大学卒業生・詩画家「たけ」さんにインタビュー | 京都産業大学 (kyoto-su.ac.jp)

2021年デザイン紹介
不屈のたけ 受験生に贈る応援メッセージ | 広告ギャラリー(2021)年度 | 大学広報 | 大学紹介 | 京都産業大学 (kyoto-su.ac.jp)

2022年デザイン紹介
ワンキャンパスのきらめきアーカイブ | 大学広報 | 大学紹介 | 京都産業大学 (kyoto-su.ac.jp)

2022年

4月で20周年を迎えた

2023年~

zoom講演会『いきまる』をプロデュース。「生きてるだけで〇」をテーマに毎月素敵なゲストをお招きしています

闘病日記

【命の鍵】
親友でクリエイティブジュエリー及びシルバーアクセサリーを製作販売する人がいる。彼の家に行ったら、新作の銀の鍵を見せてくれた。「うわぁぁーかっこいい!」これを車やバイクの鍵に加工したらかっこいい銀になる。加藤さんのセンスとアイデアに一目惚れした僕は、その場で注文した。ボロ家の合鍵を渡した。
この合鍵は後で自分の命を救う合鍵になった。

【発病2日前】
苦労した就職活動に末、研修が始まった。ただし、木金は休み。月曜日から正式登社になった。体がしんどい。

【発病1日前】
会社の研修の中身を家で自習。なぜか集中できない。ボロ家の風呂が壊れた。明日に大阪ガスの人が来る。
夜、エボニーで「かめ」とミーティング。この頃「たけかめ」が調子がよい。日曜日には上田正樹の前座だ。明日の金は、ミューズホールの責任者にワンマンライブの会議する予定だ。
「かめ」と別れ、風呂へ行く。後、四川ラーメンを食べた。明日は夜に「かめ」と会議だけ。ゆっくり寝よう。マネージャーの「りえ」と電話で報告する。でも、なぜかろれつが回らない。なぜ?
1階のこたつで寝る・・・・・

【発病の日】
体の異常で起きる・・・・
「何じゃ!?これ!!」
パンツに中で大量のうんこ!うんこ!
体の内の排泄物がすべて出たようだ。(汚い話でごめんね)
しゃれにならんな。しゃーない。
とにかく風呂へと思った。「よっこいしょ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「何じゃ!?これ!!」起きられない。右半身で鉛みたいだ。
立ろ上がろうと試みたが、バタバタ 暴れるから、うんこが畳に落ちた。
「何でやろう?」
途方に暮れたが、這って浴室に行った。眠い・・「しまった!お湯出ない」しょうがないから、寝ながら冷たい水を浴びた。
部屋に帰った。ボーッとする。眠い・・とにかく落ち着こうと思った。タバコに火をつけた。
この1本が高校以来長い喫煙生活の最後になった。眠い・・
時計を見たら7時。
大好きなダウンダウンの「ごっついええ感じ」の時間だ。ビテオに撮ろうと思ったが、チャンネルが変えられない。テレビは「ドラえもん」が映るだけ。
「かめ」と約束が気になるけど、汚い部屋が気になるけど、とにかく今は眠い
意識が薄れる・・・・・・・・・

【命の鍵II】
加藤さんが玄関から入ってくるのが見えた。
何で入れたんやろう?そうか、合カギを渡してた。
「たけちゃん、救急車よぼか?」と言った気がする。救急車って、大げさなヤツやなぁと思った。
救命士が着く。話合ってるけど、全く聞こえない。声も出ない。なぜ?
救急車に乗る。意識が薄れる・・・
病院に着いたらしい。美人の先生の顔を見る事ができた。
僕のベッドを中心に慌ただしい、忙しいようだ。シャツ、パンツをバサバサとはさみで破いていった。すっぽんぽんで恥ずかしい。
誰かなんぞはかしてくれっと思ったら、「オムツ」をはかしてくれた。「ノー!オムツも恥ずかしい」 意識が薄れる・・・ 

【ここはどこ?】
病室にいるみたいだ。「ここはどこ?」
妹が泣いているのを見た。大げさなヤツやなぁ。
「あれ?」見渡すと友達が泣いているヤツもいる。
特にクールな横田さんが泣くのを見て
「もしかしたら・・・もしかしたら・・・俺・・・死ぬかも・・・やばいの?」
皆は泣くけど、とにかく、眠い・・・意識薄れる・・・

【自覚】
やっと、おれは声が出ない、耳が聞こえないと自覚した。
「どうした?俺は・・病気の一時のショックだろ?」
筆談が始められた。相手の言った事は理解できたが、自分の言いたい事が書けない。
「あいうえお」も書けない。忘れた。「どうした?俺は・・アホになったの?」
鏡を見て、またショック。顔半分がまひしている。まるでバイク事故後のビートたけしの顔のようだ・・

【厳しい現実】
コミュニケーションは何とか筆談できる。
病気を説明された・・・
「脳梗塞!?何ケ月も入院!?リハビリ!?」厳しい現実を聞いて、声を上げて泣いてしまった。
「片手片足の聾唖者で生きるより死ぬ方がましだ。
家族に迷惑をかけるだけ。死ぬ方がましだ」
・・・・・・
34歳で俺の人生は終わった・・・
これ以上生きたとしても、いい事が何ひとつないだろ・・・
繰り返し深い絶望が襲った・・・・・

【絶望】
失したものを数えてばかりだった。
音楽を聞く耳、歌を歌う声、ギターを弾く右手、詩を考える言葉、俺にとってめちゃ大事なものをわざわざ選んで持って行ってしまったみたい。
毎日仲間がたくさん来てくれるが、やっぱりつらい。助かったことを後悔した。
命の恩人のかと-さんに「どうして救ったんだ!このまま 厳しい現実を知らないまま、眠るように死んでいきたかったのに・・・」

【苦しい時こそ感謝せよ】
僕の考えの中に、「宇宙学」という教えがあります。この宇宙学の教えをいつも心に置いていました。
その教えの中に「苦しい時こそ感謝せよ」という言葉があります。
が、発病した時は、さすがに思えませんでした。
「何を感謝しろというのだろう?命が助かった事か?はいはい確かに命が助かった。
が、それに代わる大きな障害が残った。どこに感謝しろというのだろう?
「これからどう生きたらいいのやろ?」尿道のチョ-ブが取れて、おむつが取れたが、まだ心の中は絶望。
そんな中で自分の足で立つ事が出来た。すらすらと歩く事ができた。トイレで自分の足で用をたせた時は嬉しかった。
聴力は「あすは聞こえるやろ」「今日はダメだった」「明日こそ聞こえるやろ」毎日そんな気持ちの連続。
ヘッドホンを耳に付け、寂しそうに首を振る姿に家族は心を痛めている様子でした・・・

【たけの妹が書いた闘病日記より】

2001年10月13日
始まりは突然でした。
仕事中の私の携帯に兄の友人・加藤さんからの電話。
『たけちゃんが倒れた。脳梗塞、すぐ来て!』

20001年10月14日
お兄ちゃんは紙に”朝”と言う字を書きました。明日から会社の研修が始まる予定だったので気にしています。本当に残念です。
『悔しい、悔しい!悔しい!!』

2001年10月16日
お兄ちゃんは”宇宙の神様”を信じていました。
『強く 正しく 明るく 我を折り、宜しからぬ欲を捨て 皆仲良く 相和して感謝の生活をなせ』
いつもこの言葉を心に置き、実行していました。病気になった今も感謝しているのでしょうか?

2001年10月18日
耳がやっぱり聞こえないらしく、検査の結果、耳の神経に異常はないが脳に伝達する所で止まってしまっているとの事。お兄ちゃんは音楽を愛するロックンローラー(自称)。音のない世界なんて!!頑張れ脳細胞!!

2001年10月19日
足の方は大分しっかりしてきました。ベッドの上でバタバタと暴れる様に運動しています。しゃべれないので、伝えたい事は紙に書くのですが、ひらがなが思い出しにくいのか、丸いので書きにくいのか漢字や英単語が多いです。
何を書いているのか解らない字がほとんどですが・・・。

2001年10月20日
晩10時頃、点滴部から出血。シーツ、パジャマが血だらけになりました。二人で顔を見合わせ「ビックリしたねー」と大笑い。
この時、初めて家族だけの前で声を出して笑ってくれました。いつものお兄ちゃんです。

2001年10月21日
病院にずっと居て看護婦さんの仕事の大変さ、有難さが良く分かりました。
特にこの病院は、先生、看護婦さん、皆とても優しく、そして若くて美人です。お兄ちゃんは無意識の内にこの病院を選んだのかも。
とにかく感謝、感謝です。

2001年10月22日
昨夜は”音のない世界”ってどんなの?とテレビの音を消してみました。一生懸命想像してみたら何となく分かる気がしました。
お兄ちゃんは父に、顔のマッサージをしてもらいながら涙を流しました。申し訳ない気持ちで一杯だったんだと思います。
私も父の後姿とお兄ちゃんの涙を見て、涙が溢れ出てきました。ちょっぴり切ない夜でした。

2001年10月23日
リハビリが待ち遠しくて、言語療法の先生が約束の時間に少し遅れると、紙に先生の名前と時間を書いて見せます。母は先生の名前すら覚えていなかったのに...。”治したい”と言う想いが本当に強いです。

2001年10月24日
脳細胞というのは、一度破壊されると再生しないと云われていますが、最近ではそうではないと言う説もある。脳外科の先生でも分からない事が多く、いわゆる奇跡が存在する世界だとの事。
どうかどうかお兄ちゃんの身に奇跡が訪れますよう、強く、強く祈ります。

2001年10月25日
お兄ちゃんはノートに”お母さん あいうえお”と書きました。”ありがとう”と書きたかったみたいです。”お母さん あいうえお”いい言葉だなぁ。

2001年10月27日
同室の方が言って下さいました。『神様は見捨てません。皆に平等にチャンスは来るから。絶対に来るから大丈夫です。』

2001年10月28日
来て下さった方をエレベーターまで見送るのがお兄ちゃんの仕事のようで、調子にのってスキップしてみせたりします。
ただ話し声が聞こえないので、時々寂しそうな表情をします。そんな顔を見るのは切ないです。

2001年10月29日
今日、母が徳島に帰りました。入院した日からずっと兄に付き添い、絶望から希望へと自らを導いた母に脱帽です。お疲れ様、ありがとう。

2001年11月2日
お兄ちゃんは失語のことをずっと心配しています。
忘れたものは、また思い出せばいい。思い出せないものは、また覚えればいい。私は思っています。

2001年11月3日
お見舞いに頂いたお花が、すごく長持ちしてて、兄を励ましてくれています。
入院して7日目に頂いたお花の枝から新芽が出てきました。寒い季節の切花なのにちょっと感動です。
それは兄の生命力にもつながるようで、嬉しくてしばらくながめていました。いつもと違う環境の中で、小さな生命がすごく愛しく思える日々です。

2001年11月4日
お見舞の人達をエレベーターまで見送る時に今まで左手で握手していたのが右手に変りました。皆に握手をしてもらってパワーを頂いています。
私もこの年になって、こんなに堂々とお兄ちゃんの手を握れるとは思っていなかったです。今のうちにいっぱい触っておきましょう。

2001年11月5日
手話で「ありがとう」を覚えました。何回も何回も「ありがとう」と言ってくれました。

【ある日の日記より】
この12年間、いろいろあったが、最大な出来事は、障害者になったことだろうね。
一見したら不幸な出来事だった。本人の僕もそう思った。
小便はチューブ、大便はオムツの中、排泄は人任せ、食事は鼻からチューブ。
ベッドの上でぶざまな姿を見せるだけ。出来ないことの多さに人生終ったと絶望した。
・・・・・
今は、障害は残ったけど、元気にしてる。
当時は食事は鼻からチューブだったし、今、おいしいものを食べれるって夢のよう。
当時はオムツだったし、今の、自分で歩いて、トイレでうんこ出来るって夢のよう。
当時は車いすだったし、今の、車に乗って全国に行けるって夢のよう。
当時は仕事なく、住むところもなく、人生が終わったと思ったし、
今の、自分の表現で生活出来るって夢のよう。
おいらはこの障害で気付いた。
夢って、
幸せって、
今、自分がおかれている日常そのものかもと。
そんな状態で、また、「夢、希望ない」と言う人が現れた。
宇宙に法則をわかりやすく教えてくれる小林正観さんだ。
今なら小林正観さんが言う「夢、希望ない」をよくわかる。
普通に話ができることかどれほど幸せか。
普通に歌を聴けることがどれほど幸せか。
普通に手が動くことがどれほど幸せか。
普通に生活ができることがどれほど幸せかと。
すべてありがたくてありがたい。すべて夢のよう。
必要なものは全部頂いているかも、と気づいてしまった。
私はいまのままで十分幸せです。
私は今が夢のよう。
夢をもて、目的をもて、やればできる

こんな言葉に騙されるな

何も無くていいんだ
人は生まれて、生きて、死ぬ
これだけでたいしたもんだ